多くの人が学習の3でストップしています
人は成長の過程で様々なことを学んでいきます
その「学び」に関しての「教え」がないことで
勉強してもなかなか成果がでなかったり
経験したこともすぐに忘れてしまったり
教わったことを全然活かすことができなかったりします
今回は「学び方」についてお伝えします

以下の4ステップでひとつの学習過程が完結します
① 無意識無能力
② 意識無能力
③ 意識能力
④ 無意識能力
(後で詳しく説明しますね)
色々なことを勉強して学ぶことは大事ですが
「学び方」を理解しているのといないのでは
学習に大きな差ができます
学習の4ステップを理解することで
学んだことがしっかりと身について自分のスキルになります
学んだことがそうした機会に活かせるようになります
逆に学習の4ステップを理解していないと
どれだけ一生懸命勉強しても、
どれだけ徹夜して時間をかけても、
その労力や時間は無駄になってしまいます
学習の4ステップ

ステップ1:知らないことは出来ない
人は知らないことは知りません
知らないことは出来ないわけです
これを「無意識無能力」の状態と言います
ここで重要なことは
「無知」をごまかさないことです
人は知らないことがあって当然なわけです
知らないことを知らないのは当たり前のことです
知らないと恥をかくようなこともあるかもしれません
「聞くは一時の恥 知らぬは一生の恥」と思って
聞くあるいは調べれば良いでしょう
「知らないこと」を「知らない」と認めて
はじめて次のステップに移行できます
「知らないこと」を
「知っていると思っている」状態は危険です
ここで私が勝手に師匠としているコピーライティングの講師から教わった
ひとり勝ちのマインドセットをシェアしますね
このマインドセットはどんな場面にも有効に作用します
学習において最強とも言えるマインドセットと思うので
私は紙に印刷して貼ってあります笑

------コピペ用------
知っていると思った瞬間が
もっとも危険な瞬間であり
私はまだ何も知らないと認めた瞬間
それが最大の武器になる
稀に「知らないことを知っている」という人がいますが
いわゆる「知ったかぶり」とは少し意味合いが違います
あれは「知らないこと」を「知らない」と認識しているのに
「知っている」と言っているただの ”嘘” です
まあ他意はなくても自分に嘘をついているので
きっと気持ちは良くないですよね
ステップ1のポイントは「知らないことを認める」です
ステップ2:知ってるけど出来ない
知ってることと出来ることは違います
例えば「ペペロンチーノを作ってください」と言われたとき
作れるでしょうか?
人によると思います
いくつかのパターンを見ていきましょう
パターン① ペペロンチーノを知らない
パターン② ペペロンチーノを知っているが作れない
パターン③ ペペローンチーのを知っていて作れる
知らなくても良いんです
今の時代「ペペロンチーノ」と検索すれば
それがどんなものでレシピどうで作り方まで
調べれば情報として出てくるでしょう
ですが「知った」だけです
「作り方を知っている」と
「作れる」では違うということです
「知ってる」ことと「出来る」ことを
同じに考えてはいけないということです
小さい頃に鉄棒で逆上がりをしませんでしたか?
(今の時代ではどうなんでしょうか…)
それを「知ってる」あるいは昔は「出来ていた」としても
「出来ている」と思いがちです
「出来ていた」と「出来ている」でも違うということです
大事なことは「出来ない」ことを認識することです
これは「意識無能力」の状態です
多くの事柄がこのような状態にあると思います
「出来ない」ことに変な言い訳をつけないことです
そこに ”嘘” が混じると「出来ない」ことに向き合えなくなります
こうした ”言い訳” を作ってしまうと次のステージには行くことがありません
ステップ2のポイントは「出来ないことを認める」です
ステージ3:知ってることが出来る
「意識能力」の状態です
「出来ない」ことを認識できたことで乗り越えた状況です
知らないことを認め
ペペロンチーノ 作り方 で検索し
出来ないことを認め
アレンジせずレシピ通りに作ってみた結果です
とても素晴らしい結果ですが
多くの方がこのステップ3で学習を完結しています
ここで完結してしまうと
学習にかけた時間を無駄にしてしまっている理由につながります
えっ なんで? 「出来た」じゃん
って思われるかもしれませんが
学習のステップには4があるんです
知ってるけど出来ないことと
知ってることが出来ることの違いがどこで生まれるのか?
得意不得意はあるでしょうけれど一般的な目線で見てみましょう
小学校で学んだ算数と中学校で学んだ数学では?
→ 日常でも使用する算数の方が「出来る」のではないでしょうか
社会と歴史ではどうでしょう?
→ 日常の「社会」のほうが詳しくありませんか
国語と漢字では?
→ 言葉として話している「国語」ではないでしょうか
理科と化学ではどうでしょうか?
→ これも日常で活用している「理科」ではないでしょうか
そうなんです「違い」とは「習慣化」しているかどうかです
その当時は「出来た」ことも 今は「出来ない」理由…
それは「習慣化」されていないからです
「習慣化」=「身についた能力」なのです
つまり「身についていない能力」は「出来ている」ことにはならないと言うことです
ポイントは「出来た」と「出来ている」の違いですね
では4ステージはどのような状態なのでしょうか
ステージ4:無意識に出来る
このステージにきてはじめて学習として完結します
「無意識能力」の状態です
そのことを意識せずとも出来る状態のことです
それが習慣になって当たり前のように出来る状態のことです
初めて紐靴を手にした時に
最後の蝶々結びに苦労しませんでしたか?
それを知って、やって、やり続けてやっと習慣化されるわけです
テスト勉強のときにガリガリと勉強して知識を詰め込んだ経験がありませんか?
その時の知識のどれほどを覚えているでしょうか?
多くの知識を詰め込んでも常用しなければ忘れます
忘れた知識は使えません
それは結果的に2ステージの「知ってるけど出来ない」状態なのです
では どうすれば良いのか?
知っていることは行ってこそ身につくものです
自己啓発系の本などでもよく言われている
インプット以上にアウトプットが大事という考えです
例えば
初めて知った漢字の場合「漢字ドリル」(懐かしいなぁ…)
というものがあってひたすらその字を書きまくるわけです
それはもうインプット1に対して30くらい書くわけですが
それだけ書いても忘れるんですよね笑
なぜ忘れるのか? 使わないからです
知行合一

「知行合一」(ちぎょうごういつ)
という言葉をご存知でしょうか?
知ることと行うことは合わせて一つであると言うシンプルな概念です
少し詳しく見ていきましょう
知行合一(ちぎょうごういつ、ちこうごういつ)は、中国の明のときに、王陽明がおこした学問である陽明学の命題のひとつ。知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知(人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)から発する作用であり、分離不可能であるとする考え。
https://ja.wikipedia.org/wiki/知行合一
原文を見ていくと
「知は行の始め、行は知の成るなり。
聖学はただ一個の功夫。知行は分かちて両事となすべからず」
和訳としては
「知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成である。
我等の目指す儒学においては、修養はただ一つであって、知ることと行うこととを別個のものとはみなしてはならない」
「知る」ということは「行う」ために知るのであって
行っていなければ 知っていることにもならない と解釈できますね
つまり行動を伴わない知識は未完成であるとも言えますね
「行う」とは何か?
それを使うことです
初めて知った言葉ならそれを使って会話をする
初めて知った漢字ならそれを使って手紙を書く
初めて知った料理ならそれを作って食べてみる
一度ではなく何度もそれを行うということで
レシピを覚えて身につきます、それが料理スキルが上がった結果です

そして「行う」よりももっと学習効果の高い「行動」こそが
「教える」という行為です
その知識を
誰かに教えられるようになれば自分のものに出来ていると考えられます
言い換えれば
人に教えるために学ぶということです
人にものを教える立場ではない人はどうすれば良いか?
そういう立場をとってそのことを学べば良いと思います
ないものをあるものとして考えるわけです
例えば
自分がもしも「店長」だったらと考えて仕事をします
店長ではなくても店長という立場をとって仕事をすると
いつもよりリーダーシップが発揮できるかもしれませんね
あるいは
教師、講師、教員という立場をとって学ぶ
自分は人にものを教える人間だという前提で学んでみるということですね
それは要するに「アウトプット前提でインプットする」ということですね
まとめ
学習の4ステージ
ステージ1:知らないことは出来ない
(無意識無能力)
↓
ステージ2:知ってるけど出来ない
(意識無能力)
↓
ステージ3:知ってることが出来る
(意識能力)
↓
ステージ4:無意識に出来る
(無意識能力)
知行合一(ちぎょうごういつ)
「知は行の始なり、行は知の成るなり(知ることは行為の始めであり、行為は知ることの完成である)」
この概念を取り入れてこれから何かを学習すると
これまでの学習よりもずっと得られるものが多く大きくなると思います
最後まで読んでいただきありがとうございました。